平成20年度 現代GP開講講座
サイエンス・ライティング入門 課題エッセイ:Part 3

平成20年後期開講講座 『サイエンス・ライティング入門』(担当:青山 聖子先生)では、広く公開されることを前提としたエッセイを書いて行く中で 文章力・表現力を研鑽しています。
第1回テーマ『バイオエタノール
第2回テーマ『「健康食品」や「サプリ」の広告の特徴とそれに対する人々の反応
第3回は、この講義の総まとめとして自分の書きたいテーマを選び、それについて2000字でエッセイを書き上げました。

それでは 2008年度 現代GP開講講座『サイエンス・ライティング入門』の集大成作品をお読みください。



平成20年度 サイエンス・ライティング入門課題エッセイ
第3回テーマ

『 2000字エッセイを書きましょう!』



 ●胸を張って「理系」と言おう : 原田 朋美( 理学部 化学科 3年 )
 ●授業にもっと「おもしろい」を!: 三ツ木 礼子( 理学部 化学科 3年 )






『 胸を張って「理系」と言おう 』
原田 朋美 (理学部 化学科 3年)


理系っぽくないよね、となぜかよく言われる。これは、ほめ言葉らしい。理系学部に籍を置く身として愉快な気はしない話だ…が、あまりいい意味で使われない「理系っぽい」という言葉にもいい加減慣れてしまった。それにしても「理系」ってどんなふうに見られているのだろう。ふと気になって、文系学部に籍を置く友人に尋ねてみたところ、「生真面目」「細かい」「理屈っぽい」などの答えが返ってきた。

私の場合、その全てに当てはまるわけではないが、自分はやはり理系人間なのだと感じることが多い。そんな自分の一体どこに「理系っぽさ」を感じるのか、改めて考えてみた。


 自動券売機のお釣りはどうして最後に出てくるか

常々非効率的だと感じていることがある。それは、自動券売機のシステムだ。切符を選び、お金を入れ、発券され、お釣りが返ってくる、というこのシステムはJR・私鉄・地下鉄を問わず共通である。

私が気になるのは、切符 → お釣りの順番だ。この二つ、逆にした方が効率的ではないだろうか。もちろん、「お釣り」は支払った金額と購入した商品価格の差分であるから、返されるのが「商品」である切符の後であることには正当性がある。近距離の切符ならそれでもいい。だが、新幹線や回数券など枚数が多い切符を購入する際、あるいは定期券の継続などで発行に時間がかかる場合、発行を待っている間にお釣りを出してくれれば、お金をさっさと財布にしまうことができる。例えるならば、コンビニでお弁当を買うときに、チンしてもらっている間に会計を済ませるようなものである。わずか数秒と些細な話ではあるが、そういった機能が組み込まれたら絶対便利になると、ひそかに思っている。

確かに、なんでもかんでも「効率」を第一に追い求めるのは無粋かもしれない。しかし、「○○が××だったらもっと便利なのに」という考え方は、使い勝手をよりよくするために必要不可欠ではないだろうか――そうやって理屈で正当化したがるのも、細かいことに効率を求めるのも、きっと理系の癖なのだろう。


 初めに結論ありきのエセ実験に惑わされるな

先日、テレビのバラエティ番組で「歳を取ると筋肉痛になるまでの時間が長くなるなんてウソ」と言っていた。実際に、若者と中高年の男女に同じ運動をさせ、翌日に筋肉痛になったかどうか尋ねるという実験を行ったという。実験の参加者全員が筋肉痛を訴えたことから、そのように結論付けたようだったが、あまりの「ぶっ飛び理論」に驚いてチャンネルを変えてしまった。

どうも「実験の結果」という言葉には魔法があるらしい。テレビ番組や広告などでは、この言葉を冠することで、説得力を「演出」しているように思える。実際、この実験にどれだけの説得力があるかというと、「この運動量をこなすと、年代を問わず翌日は筋肉痛になるようだ」ということだけだ。娯楽番組である以上、実験自体が演出でしかないにしても、少々やりすぎの感がある。予め設定した結論を導くために行う実験はもはや「実験」ではない。これがもし、もっと軽い運動でも同じ結果が得られただろうか。あるいは、違う種類の運動ではどうだっただろう。筋肉痛を感じた部位やその痛みの程度が、みんな同じぐらいだったとは限らないし、痛みがいつ現れたのかも定かではない。ふだんから筋肉痛を起こしやすいかどうかも結果に大きく影響するはずだ。そもそもサンプル数はもっと多くなければ――考えるとキリがない。これも、理系の発想の一つなのだと思う。


 ケータイを手放せない別の理由

家にケータイを忘れて出てしまうと、一日中不安である。コミュニケーション依存という現代病であることは否定できないが、それだけではない。

たとえば、遅延の案内などで見かけない駅名を見ると、それがどこにあるのか気になってしょうがない。これに限らず、漢字の読みやふだん略しているものの正式名称から駅弁があたたかくなる仕組みまで、一度気になるとどうしても知りたくなる。それを調べるために、ケータイが手放せないのだ。ウェブ機能の目覚ましい発展により、知りたい情報はどこにいても手にすることができるので、大変重宝している。

居酒屋でのアルバイト中に、メニューに表示されていた「日本酒度」について知りたくなったことがある。先輩に聞いても、店長に聞いても明確な答えが得られず、勤務中だというのに「ググって」調べたくなった。結局、休憩の時間を利用して調べたが、今思い出せるのは「甘いか辛いかという一つの指標」ということくらいで、知識が身についたとはとても言えない。私の場合、このようにその場で納得するだけで満足してしまい、大して記憶に残らないことがほとんどだ。

だがこれも、ある種の「理系の特徴」なのではないかと思う。畑違いのことであっても、興味をもったことなら調べたくなるが、その情報を自分のものにするには至らない。逆に「文系の特徴」として、自分の専攻分野などの狭い範囲について、深い知識を蓄えることに喜びを見いだす傾向が、周りの友人を見ていても多いように感じる。


 何にでも効率を求める自分、根拠に納得できないと物事を信じない自分、日常生活の中に調べる楽しみを見いだせる自分。この「理系っぽさ」ゆえに敬遠されることがあっても、むしろこんな自分の性格は得だと思っている。あふれる情報を丸呑みするよりも、この性格でつつき回しながら生きていくほうがきっと楽しい。もしまた「理系っぽくないね」と言われることがあるなら、にっこり笑って「バリバリ理系だよ!」と答えてみたい。






『 授業にもっと「おもしろい」を! 』
三ツ木 礼子 (理学部 化学科 3年)


「ゆとり世代」の理系科目の学力低下が問題となっているのはご存知だろうか。日本が最も得意として来た理数系科目で世界のトップレベルから転落したことが、2006年のPISAの結果によって明らかになったという。PISAとは、2000年から3年ごとに行われている国際学習到達度調査のことで、経済協力開発機構(OECD)が、加盟国を中心とする57の国・地域の15歳男女を対象に行うテストである。今やお茶大の学部生の半数以上も「ゆとり教育」をうけてきた学生。学力が低下している世代と言われれば、他人ごとではないはずだ。


 「ゆとり教育」とはなんだったのか??

そもそも「ゆとり教育」が始まるとき、授業時間や指導内容をそれまでより削減することから、学力低下は簡単に予想できたはずだ。それにもかかわらず実施された「ゆとり教育」はどのような目的をもっていたのだろうか。

「ゆとり教育」はそれ以前の「詰め込み教育」の反省から導入されたものだという。「詰め込み教育」というのは、知識をひたすら頭の中に詰め込むことに力点を置いた教育で、習熟度を画一的に点数化しやすいことから、激しい受験戦争にもつながったとされている。また、暗記が多いゆえに、生徒の学習意欲を維持するのが困難ともされていた。「ゆとり教育」では、知識の暗記に費やしていた時間を一部削って、基礎的・基本的な内容の確実な定着のみにとどめている。その一方で、自主的に学び、考える力を「生きる力」とし、これと豊かな人間性を育成することを目指している。

PISAのテストは「科学的応用力」「読解力」「数学的応用力」の3分野で行われた。これらは暗記型のテストではなく、日頃の暮らしや環境問題など具体的な事柄に関連して考えさせるのが特徴だ。「詰め込み教育」の反省から生まれた「ゆとり教育」では、このような思考力を身につけさせるのが目的の一つのはずだったが、テストでは3分野とも前回を下回る成績だった。PISAの結果だけを見れば、「ゆとり教育」で目指してきたものは達成されていないことになる。

文部科学省では小・中学校の「新学習指導要領」を平成23年度以降に実施する予定であったが、今回の結果を受け、理科や算数・数学の一部の内容については、予定よりも2年早い平成21年度から実施することとした。指導要領改訂の基本的な考え方は、「『生きる力』をはぐくむという学習指導要領の理念を実現するため、その具体的な手だてを確立する」ことだという。自主的な学習をうながしつつ、知識の習得をも目指すことにあるようだ。


 解決方法は一通りではない?

「ゆとり世代」の私としては、「ゆとり教育」は、その理念が抽象的すぎて、具体的な教育にうまく結びつかなかったのではないかと思う。今度の新課程では、抽象的な理念はそのままに、さらに欲張って内容が盛り込まれている。理想を並べるのは簡単だが、それを実現しようとするのは現場にいる教師と生徒たちであって、指導要領それ自体に力はない。例えば、新指導要領では理科への興味・関心を高めるために、実験の時間を増やすこととしているが、それだけでは問題解決にならないだろう。いろいろな生徒がいて、考えもそれぞれだからだ。

私自身は化学の実験が好きだった。目的の化合物を作ることができたとき、反応で明らかに様子が変わるときなど楽しいことばかりだった。だが、高校で同じクラスだった友人は、「実験は決まった結果を出さなくてはならないし、事実の追随でおもしろくない」と正反対の意見だった。自分の手で事実を確かめることに、私のように感動する人もいれば、その時間を無駄と感じる人もいる。この友人と同じように、つまらないと思いながら実験に取り組む生徒は今も少なくないのではないか。そうだとすれば、実験を増やしても、教える側に工夫がないと理科嫌いをさらに招く可能性もある。実験に限らず、学習への興味、関心を高めるには、単に時間を増やすといった一様な対策だけではなく、現場の教師の力量が求められると思う。


 必要なのは先生!

今まで知らなかったことや、新しい考えに触れると人は「おもしろい」と思うだろう。そういえば、小学生のときの塩酸と水酸化ナトリウムの中和反応が忘れられないのは、危険なもの同士が混ざり合うと身近な食塩になるという新しい事実に出会ったからだったような気がする。嫌いなものや興味のないものを学んだり、考えたりするのは億劫だ。しかし、「おもしろい」と思ってしまえば、自らで考えるようになるし、勉強が苦でなくなるはずだ。「生きる力」につなげるためにも、教科を「おもしろい」と思わせてくれる教師が必要だ。

今は教師が怠けているから生徒の興味・関心を引き出す授業ができないと言っているわけではない。先生たちにがんばってほしいとは思うが、教師を取り巻く状況がきびしいのも確かだ。学内の委員会や係など、授業以外の仕事も多いために、授業計画ばかりを練っていられないのが現状だという。

もっと教師が生徒の「おもしろい」を引き出す授業ができるように、また、そのような授業を準備する時間が得られるように、教師が自由に使える時間を増やすことが、指導要領をあれこれいじるよりもよほど効果的だと思うのだが、いかがだろうか。