平成21年度 現代GP開講講座
サイエンス・ライティング入門 課題エッセイ

平成21年後期に開講された 『サイエンス・ライティング入門』(担当:青山 聖子先生)では、前年度に引き続き、課題として広く公開されることを前提としたエッセイを書いて行く中で、文章力・表現力を研鑽していきました。平成21年度も、実際の講義やキャリアレポート放送局を通じて講評を行い、完成度を高めたエッセイを公開いたします。
 今回は平成21年度 最終課題エッセイから、『 科学にまつわるニュースやトピックについて論じてみよう 』をテーマとして書かれたエッセイを掲載いたしました。

それでは 受講生の作品をお読みください。 (※ 学年表記は平成21年度当時のものです)



平成21年度 サイエンス・ライティング入門課題エッセイ

『 科学にまつわるニュースやトピックについて論じてみよう 』 (2000字程度)



未来を創る夢の力:坂根 扶美 (理学部 生物学科 3年)
若者の「 教養 」離れ:鶴薗 美穂 (理学部 生物学科 3年)





『未来を創る夢の力』
坂根 扶美 (理学部 生物学科 3年)


「俺さ、宇宙エレベーター作りたいんだよね。」
物理専攻の大学生である友人Aは飲みの席で突然そんなことを言い出した。
“宇宙エレベーター“という単語を生まれてはじめて聞いた私は何の事だかわからず、
「何それ、ドラえもんの道具か何か?」
と冗談半分にそう言った。
しかしそれに対する彼の返答は
「うん、それに近い。」
という意外なものだった。


 彼の言う宇宙エレベーターは別名“軌道エレベーター”と呼ばれ、その名の通り地上と宇宙をつなぐエレベーターである。地上から延びる構造物(ケーブル)に沿って昇降機が上下することで宇宙と地球の間での物資輸送を可能にするというもの。普通のエレベーターはケーブルが昇降機を動かすのに対し、宇宙エレベーターは昇降機がケーブルの軌道上を上下するのだ。
 そんな夢みたいな話、あるわけがない。それこそ本当にドラえもんの世界ではないか、と思われる方も多いことだろう。事実私も同じように思った。しかし、この宇宙エレベーター計画はただの夢物語ではなく、少しずつではあるが実現に向けて前進し始めている。
 宇宙エレベーターの原理は静止衛星によって説明がつく。地球を周る人工衛星は、地球の重力によって内側に引っ張られている力と遠心力で外側に飛び出そうとする力が釣り合っているため、高度を維持して周回し続けることができる。中でも赤道上の高度約3万6000kmを周る人工衛星は、地上から観察すると静止しているように見えるため、“静止衛星”と呼ばれている。
 この静止衛星から地上へ向けてケーブルを垂らしたとする。ケーブルを吊り下げた分ケーブルの重さで衛星の地球に向いている側、つまり下の方がやや重くなり、このままでは徐々に地球の重力に引かれて落下してしまう。そこで、反対側にもケーブルを伸ばしていき、重さが釣り合うところまで伸ばす。こうすれば衛星は静止軌道の高度を維持して回り続けることが可能になる。上向きを伸ばして釣り合ったら下向きのケーブルをさらに伸ばし、バランスが崩れたら再度反対側も伸ばし…と繰り返せば、やがてケーブルは地上に到達する。このケーブルに昇降機を取り付ければ宇宙エレベーターの完成である。ではこの宇宙エレベーターの完成は私たちに何をもたらすのだろうか?
 現在、地球上の人間や物資を宇宙へ輸送する方法はロケットのみである。しかし、ロケットは重量のほとんどが燃料であるため非常に効率が悪く、燃料を燃やしたときの環境負荷も問題とされている。また打ち上げにかかる費用は1回100億円にも上る。その点宇宙エレベーターは今のところ昇降機をエンジンではなくモーターで動かす計画のためロケット燃料は不要である。そのためコストも危険性もぐっと抑えることができる。今までよりも簡単に物資の輸送ができるようになることが期待されるとともに、私たち一般市民の宇宙旅行がより身近なものになるかもしれない。
 この宇宙エレベーター、着想はなんと1895年までさかのぼり、旧ソ連の科学者でありSF作家としても知られるコンスタンチン・E・ツィオルコフスキーがその自著の中で述べている。また、静止軌道上の衛星から上下にケーブルを伸ばすという構想は1959年に旧ソ連の技術者ユーリ・アルツターノフが発表した。彼は著書の中で宇宙エレベーターを“天のケーブルカー”と表現している。なかなかロマンチックである。
 このようにSFファンや科学者の間では古くからアイデアが知られていたが、技術上の問題から実現は難しいと考えられてきた。一番の問題は3万6000kmも伸ばしたケーブルが自重によって切れてしまうことである。1975年にジェローム・ピアソンが材料に関する研究を行った結果、宇宙エレベーターのケーブルには自重破断長が4960kmほどの物質が必要なことがわかった。これは一様な重力がかかる場で、一様な太さのケーブルを4960km下に伸ばすまで切れないということを意味する。数字だけポンと出されてもあまり実感がわかないが、実際に存在する物質の鋼鉄では50km、ケブラー繊維では200kmほどであるのと比べると、この数字ははるかに高い。
 誰もが夢物語だと思っていた宇宙エレベーター。しかし、ある物質の発見により一筋の光がさしこんだ。
 その物質はカーボンナノチューブといい、1991年に日本で発見された。カーボンナノチューブは炭素から成り、特徴的な構造をとっている。同じ炭素化合物であり鉛筆の芯に含まれるグラファイトは、蜂の巣状の平面的なシートが積み重なった構造をしている。カーボンナノチューブはこのグラファイトのシートがチューブ状に丸まったものである。太さはその名の通り1nm(10億分の1メートル)前後、長さはその数千倍に達する。比重はアルミニウムの半分なのに強度は鋼鉄の20倍、繊維方向の引っ張り強度ではダイヤモンドをも凌駕するというしなやかな弾性力を持つ。そのため宇宙エレベーターのケーブルになりうるのではないか、と期待されている。
 しかし、まだそういった物質が「発見」されたにすぎない。このカーボンナノチューブは生成がとても難しく、まだ大量生産の技術は確立されていない。また、宇宙空間は極環境であり、地上とは性質が変わることも考えられるため、十分な実験が必要である。
 他にも問題は山積している。建築費、維持費はどれくらいかかるのか、宇宙ゴミの衝突による破損の可能性はどうするのか、テロの標的になるのではないか、環境にどのような影響を与えるか等々、数え上げればきりがない。


「やっぱり無理じゃない?夢のお話だよ。」
そう笑った私に彼はこう反論した。
「でも飛行機だってパソコンだって携帯電話だって、昔の人は想像もつかなかったと思うよ? 科学者が夢を見なきゃ、世界は変わらないと思うんだ。」
 考えてみれば私たちのまわりにはたくさんの科学があふれていて、その一つ一つに科学者たちの夢がつまっている。彼のような科学者の卵がこれからの未来を作っていくことだろう。私も科学を志すものとして、夢見ることを忘れないでいたい。






『若者の「 教養 」離れ』
鶴薗 美穂 (理学部 生物学科 3年)


若者の◯◯離れ
 最近ニュースなどで「若者の◯◯離れ」というフレーズをよく耳にするようになった。◯◯には政治、車、テレビ、活字、酒、理科、PC、献血に結婚と、あらゆる言葉が当てはめられ、様々な解釈がされている。こうしてみると、むしろ離れていないものはあるのかと問いたくなるくらいだ。消費に対して非常に消極的な若者を揶揄して「嫌消費世代」などという言葉まで出てきた。若者が車や酒などの「モノ」から離れていっているのは、日本経済の活性化という点からみれば、大変な事態だろう。しかし、私が注目したいのは消費と直接関係しない、活字や政治、理科離れの問題だ。これらは「モノ」とは違い、すべての人に求められる「教養」である。誰もが必要だと認識しているにもかかわらず、若者が離れているのはなぜなのだろう。一若者として考えてみたい。


若者の「教養」離れに気がついたきっかけ
 中学高校と海外で過ごした私は、日本の歴史や政治にかなり疎い。教養のことで他の若者をとやかく言える立場ではない。しかし残念なことに、私のように特殊な事情がない他の学生も、私と変わらないレベルだったりする。教養はその人の発言から感じ取れる、というのが私の考えである。例えばニュースを話題にするにしても、話はあまり深まることなく、すぐに次の話題へと移ってしまう。こうした様子をみていると、どうももやもやする。これは私が体感してきた海外の環境とあまりにも違うからかもしれない。
 先日、久しぶりにイギリスでかつての同級生たちと再会したときのことだ。遊園地から車で2時間の帰り道、騒ぎ疲れたはずなのに、車内は終始、昨今の政治に対する議論で盛り上がった。「議論ができる」イコール「教養がある」わけではないが、議論は教養の裏付けがあって始めて実現する。話題はアメリカとの今後の関係、奨学金制度の破綻、バイオ技術など幅広い。私の専攻が生物学だからと、遺伝子組換え食品については特に質問攻めにされ、驚いた。彼らは決して一流大学の学生ではない。しかし、どの話題も自分たちの問題として議論が交わされていた。そう、本来政治にしても科学にしても、私たちの生活に密接に関わるどころか、私たちの生活そのものであるはずなのだ。それなのに、日本ではまるで、他人事のように切り離してしまうのはなぜだろう。


「愛の反対は憎しみではなく無関心」
 これはマザーテレサの言葉である。関心がない、というのはとても根の深い問題である。中でも政治的無関心については既に多くの学者たちによる研究が行われており、現在の日本は国民が政治を他人事のように捉え、関心を抱かない、リースマンの現代型無関心にあてはまるとされている。「自分には関係がない」として、参政しようとしない。または、わかりにくい政治を理解しようとしないことが問題の本質とされている。これは政治以外の教養分野に関しても当てはまる説明ではないだろうか。
 学生時代は理科はわかりにくいと拒否反応を示し、大人になってからは、文明機器を享受きれば仕組みに興味がないという人が多い。確かに、政治や科学はより複雑、高度化し、新たな知見は様々な媒体を通して世の中に次々と送り出されている。情報があふれる現代社会では、最新の「一般教養」についていくのも難しい。私たちに求められる知識や常識は、増えることはあっても、減ることはない。忙しい毎日を送る中で、情報の氾濫にさらされ、それらを他人事として切り離す若者が増えているのかもしれない。しかし、この情報の氾濫という問題は日本に限らず、イギリスの若者にも共通する。私が感じたイギリスと日本の差異の原因はおそらく、日本の教育現場で得る知識と日常の乖離にある。教養のベースは膨大な知識であり、学生のうちに知識をできるだけ詰め込むことは必要である。しかし、ただ受験のために覚え込み、日常における意味を見いだせなかった知識は頭に残らず、せっかくの勉強も効果が薄いだろう。学生に対して、「理科なんか勉強してなんの意味があるの?」という疑問の出ようがないくらいに日常と教養のつながりを明確に示せる教師や大人がたくさんいれば、若者の無関心を解決する一歩が踏み出せるのではないだろうか。


教養の必要性を若者に再認識させる方法とは?
 ふだん生活する上で教養の必要性を強く感じることはあまりない。特に明確なガイドラインが設けられているわけでもない。極端にいえば、教養などなくても生きていける。どういう情報に触れ、何を学ぶかは結局個人の選択に委ねられている。また、豊富な知識を持ち合わせていなくても、インターネットの検索一つで答えが見つかる状況下で若者に教養の大切さを説くのは困難を極める。若者が教養に対するハングリー精神を持つにはどうすればいいのだろう。私は一つの案として、教養がなくて恥ずかしい思いをする場面に何度も合わせることを提案したい。すなわち、初対面の人や外国人と積極的に触れ合わせることだ。初対面の人間とのコミュニケーションに教養は有利に働く。教養はその人の内面の引き出しである。若者はコミュニケーション能力も低下していると責められるが、こうしてみると色々な若者問題は密接に関係しているのかもしれない。