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2025年5月27日更新
2025年5月19日(月曜日)、独立行政法人国際協力機構(JICA)緒方貞子平和開発研究所の所長である峯陽一さんをお招きし、第49回SDGsセミナー「暴力の時代の平和と尊厳」が開催されました。”尊厳”という言葉の定義を確認し、人間一人ひとりに平等に与えられた、人間として生きる権利について学ぶことができました。
講演は、暴力の歴史から始まりました。現在は、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻、過激派によるテロ行為、民族間の絶え間ない紛争等を踏まえ、暴力の時代であると峯さんはおっしゃいました。「暴力の人類史」という本のご紹介に続き、”平和を求める心”と”破壊衝動”、この二つが人間の心に、社会に、共存していることを教わりました。その上で、峯さんのご専門である南アフリカの、暴力を伴う被支配の歴史、正当化された目的のために単なる道具として扱われ、殺された南アフリカの人々の姿を知りました。印象的だったのは、”人間は手段ではなく目的である”、という言葉です。これはドイツの哲学者カントの言葉で、人間が他の人間をかけがえのない存在として尊重するべきだという意味です。「人間」という価値基準の前では誰もが対等です。その絶対的な尊厳はたとえ国家であっても侵してはならないと思いました。
また、南アフリカの”Ubuntu”という素敵な言葉を知りました。英訳すると、” I am, because you are.” です。人は人によって生かされている。他者との関係の中で初めて人として認識される。生きる上で常に忘れてはならない概念だと思いました。ここには敬意の相互性という大切な概念も存在しています。他者と尊厳を認め合う、というと具体的なイメージに欠けてしまいがちですが、日々の生活で自分が周囲の人々によって生かされていることを意識するだけでも、他者の存在への敬意は芽生えてくると思いました。
ただ、悲しいことに、現代世界では、「人間社会」という1つの大きな共同体の存在認識が薄れつつあると感じています。個人は国家の一員である前に、まず人間社会の一員です。平等な尊厳を持つ個人個人が手を取り合い、より良い社会作りを目指していく必要性は明らかです。人間が引き金を引いた環境破壊、それに因る災害や気候変動が加速度的な進行を見せる中、多くの人々が住処を追われ、作物の収穫ができず、人間らしい生活を奪われている現状があります。人間は、人間共通の課題として責任を持ってこれらの問題の解決に当たらねばなりません。人間同士で殺し合い、尊厳を侵し合っているのは、同じ人間(1つの共同体)という意識に欠けているからだと考えます。”人間の尊厳”という言葉が条文で使われ始めた第二次世界大戦後から今年で80年。人間の安全保障が広く謳われるようになった昨今でも、争いのみならず、飢餓や暴力が原因で不条理な死を遂げる人々が後を立ちません。峯さんが提示してくださった世界各地の平均余命のグラフ(1950年〜)には、地域ごとに顕著に数値が低くなっている年が見られました。例えば、東アジアでは大躍進政策、東南アジアではスハルト政権誕生前後、ヨーロッパではソビエト連邦の崩壊、アフリカではHIV/AIDSの蔓延により多くの若者が命を落としたこと等の影響です。私は、国の政策1つ、国家の体制1つでこうも国民の生きる権利が左右されてしまうのかと思うと恐ろしくなりました。このグラフのギザギザをいかになくしていくか、という峯さんのお言葉に、ギザギザの背景にある人々の命を感じ、不条理な死をなくしていく必要性を強く感じました。
最後に、「誰も取り残さない」というSDGsの根幹を貫く課題に、今こそ、”尊厳”:尊く(地位)・厳かで(振る舞い)・侵し難いこと(本質)という言葉に立ち返って真摯に向き合うことが大切だと思いました。
(文教育学部人間社会科学科1年 首藤利佳子 )